そしてその朝/一晩中の接吻

彼に会うために、念入りに洗い上げた髪を、ブロウし始めた時にその電話は鳴った。

少しかすれていたのだが、最初は落ち着いて冷静だった声は、最後は聞き取れないほどの嗚咽と共に私に届いた。

「夫と別れてください」

言葉は理解したのだが、状況が理解出来なかった。その人が「夫」と呼ぶ人は確かに私の恋人ではあったが。

動転しながらも質問にはきちんと答えたし、言葉も選んだつもりだった。そして「ブチッ!」と切れる直前に受け取った言葉は「泥棒猫!」というものだった。

私は19才だった。

タクシーに飛び乗って合鍵を持つ部屋に急ぎ、鍵穴に差し込もうとして何度も失敗した。気が付くと髪は濡れたままで、タイトスカートに部屋着のスウェット、そして素足にパンプスを履いていた。

やっと開いたドアから部屋に入り、なんとなく約束になっていた、開いてはいけない奥のクロゼットや引出しに手を掛ける。開いた扉には、生活の香りは何処にもなくて、この暮らしが偽りである事を私は理解してゆく。

手前のクロゼットには、私が見立てた幾着かのスーツとジャケットと、贈ったネクタイと贈られた私の着替えが入っている。

思えば、冷蔵庫の中身は私の不在中に減る事はなかったし、洗濯をした形跡もないのに、何日か前の下着を付けていて不思議な気がした事も思いだす。

ポケットベルが、何度も鳴っている事に突然気づく。ディスプレイは見るまでもない。そういえば、一緒に旅行に行ってきても、私が入れなければ、留守電のランプも点滅している事は無かった。

気づいていなかったの?気づこうとしなかったの?

頭を振って、彼のポケットベルのボタンを押す。そう言えば、この電話に二人以外から掛かって来た事もなかった。

電話が鳴る。「いるよ」とだけ言って、フックを押す。「携帯は持たない主義なんだ」って言っていた事も思い出す。

私は髪を念入りにブロウし、袖を通していないスーツのしつけ糸を抜いて、身に付ける。

化粧はしない。

靴音がして、ドアが開く。声を出そうとする彼の唇を私の唇で塞ぐ。

いつものように腰に回して抱き上げようとする手を軽く抑えて、私はただただ唇を押し付ける。

楽しい事もあった。楽しいと思い込もうとした事もあった。

愛していた。愛していると思い込もうとした事もあった。

私達は言葉も交わさず、部屋の入り口に立ったまま、ただただ接吻してした。

窓の外の光が閉じていた瞼越しにも感じられた時、私は唇を離し体をいれ代えて、もう一度、初めてのあの日のように彼の頬にくちづけをして、ドアを開き、深くお辞儀をしてドアを閉めた。

たくさんの接吻は、今日の彼にではなくて、好きだった昨日までの彼への想いだった。

そして、一晩帰さなかったのは、「泥棒猫」という言葉に対する、ささやかな仕返しでもあった。

誰とも戦えなかったのは、何も判らずに電話の向こうから聞こえた「おとうさんと遊びたいです」という幼い声のためだった。

そして今の私は、恋愛にやはり少し臆病だったりする。