ブナの森/「なめとこ山の熊」/休日日記

なにげなく手に取った雑誌に、ブナの森の記事が載ってる。実は私は「ブナの森」が大好きなのだ。

私が「ブナの森」に惹かれたのは、ある旅で出会ったブナの森と、その直後に読んだ「森と木のある生活」(市川健夫*長野県立歴史館館長 著)との出会いからだ。市川氏は、稲作中心の農耕文化論では捉えきれない、東日本を中心とする落葉広葉樹林の森と、人との関わりから生み出された生活を「ブナ帯文化」としてフィールドワークの中から提唱された方だ。

最初にブナの森に会ったのは、もう何年も前の6月だった。花巻から豊沢湖を抜け、大空の滝から中山峠を越えて、沢内村を目指すはずの途中でだった。ここは、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の舞台となった処なのだ。

最初にこの作品を読んだ時には、なにか荒涼とした山を想像したのだが、その後研究文献や本文を読み込むに従って、肥沃な森に囲まれた山だと知る。「熊の楽園」であった土地に興味もあった。

当時乗っていたスズキDR250というオフロードバイク東北道を駈け、私は北へ向かった。その頃の私は、残り少なくなったバイクの入れる林道を走る楽しみを覚え、丹沢や多摩を手始めに、日光から会津、そして奥羽山脈のいくつかの峠を越えていた。

撞かれたように、シェラフと簡易テントとバーナーとランプとほんの少しの食料と着替えだけを積んで、峠を越え、路傍や野で眠っていた。

その日豊沢湖にたどり着いた私は、中山街道が車両進入禁止となっている事を知ってがっかりする。目的が走ることだけだったら、そこで引き返していたと思うが、「なめとこ山」へ行く目的がこのときにはあった。

服を着替えてブーツを脱ぎ、軽登山靴へ履き替え、リュックの準備をして私は歩いて中山峠を目指した。「なめとこ山」周辺はなんだか、伐採された森の跡が遠望され、味気ない山になっていて、またまた私はがっかりする。「熊注意」の看板があちこちに立っている道を3時間近く歩くと中山峠に至る。そこにはブナの森が広がっていて、その姿を私は今でも忘れない。

森は何度となく歩き、馴染んだつもりになっていた。目の前に広がるブナの森は、薄い緑の葉が幾重にも重なりながらも光に満ちていて、初夏の陽射しの中で、ゆっくりと息づいていた。ところどころにあるミズナラやトチノ木の、少し違った色の葉を持つ木々を包み込みながら、ブナの森はそこにあった。

ブナの幹は白くて滑らかなのだけれど、様々な地衣類がついて模様になっている。

森に足を踏み込むと、その幾重にも重なった落葉の感触に驚く。地に還る落葉の香りが、若葉の香りと渾然としており、トチノ木には、初めて見る絹色に紅をさす花が咲いていて、少し光の淡い場所にはふくろうの姿も見えた。

足音を聞きつけて、あちこちの茂みや梢のそこここから、様々な鳥が羽音を立てて舞い、その音と気配に虫達が飛び交い、そしてリスが慌しく幹を駆け登る姿も見える。

生きている森。

私が知っていた森にも様々な生き物はいたし、息吹はあった。でもその密度が違っている。

私は足音を忍ばせて森を歩き、申し訳ないのだが、突然口笛を吹いてざわつく森を楽しみ、そして座り込んで淡い緑の陽射しを楽しんだ。そして、同じ時間をかけて山を下り、それは私の最後のバイクで目指す峠への紀行となり、そして、各地のブナの森を目指す旅の初めとなった。

宮沢賢治が「なめとこ山の熊」を書いた頃は、豊沢湖からなめとこ山、そして私の出会ったブナの森のある中山峠付近まで、広い森が広がっていたらしい。この森を小十郎は山刀とポルトガル伝来の大きな重い鉄砲をかつで歩き、熊達は脂肪が多く甘味のある、好物であるブナの実を食べながら代を重ねていたはずだ。

市川氏の説によれば、ブナの森を代表とする落葉広葉樹林は循環型の生活を支える物であったとする。落葉する森は、腐植土となって地を肥やし、豊富な木の実を動物達に提供し、そして動物の排泄物を得て、又、葉を伸ばし実をつける。葉の分解過程に発生する熱で、キノコや菌類も栄え、それは、お互いが支えあう小宇宙でもある。

「なめとこ山の熊」はある意味で悲劇的な結末で幕を閉じる。私は、豊沢湖へ戻る道程で、ブナの森達が伐採され一部植林の始まった風景を、往きとは違った思いで眺めながら歩いた。熊達は小十郎の死を悼んだが、この森に死を与えた人々は、せめてこの森を思うことがあるのだろうか、などと思いながら。

次に少し休みが取れたら、ブナの森へ行こうと思っている。なにやら少し心がささくれ立っているような気もしているもので。