あさ?渡部昇一・谷沢永一など

「アサ−っ!」と言えば、言うまでもなく「鼻血ブーっ!」と並ぶ今は亡き「天才漫画家谷岡ヤスジ」先生の持ちネタっつうかギャグ(?)なんだよね。

将来にわたっても、このマンガを見て「ほうっ!1900年代後半の日本人は、鼻血吹きまくっていたのか!」と思う人はまずいないと思う。ところが、どっこい世界中の記録文献が全て消失し、マンガの原本自体も消失し、唯一残ったのは「イミダス」かなんかの谷岡ヤスジさんの紹介記事ページのそれも一部

「1970−80年代に最も人気のあった漫画家の一人。独自の作風は多くの読者を得、数々の権威ある賞を受賞する。代表的なものに「アサ−っ!」「鼻血ブーっ!」など」(引用ではありません。適当です)

だけが残ったとすれば、どうなるだろう?って絶対そんな事はないんだけど。


論を構築する場合、特に文系においては仮説に従ってそれを立証する文献を集めてしまう傾向が現れ易い。勿論反論を予測して、理論体系を整理するのでまったく異論を無視する事は出来ないが、学術論文でさえ「我田引水」に落ち込み易かったりする。また、研究室の特殊性っつうか、指導教官やそのしがらみから逃れる事は、ぺいぺいの時代にはまず不可能だし、その縛りの中で独自の研究成果を表し、しかも学会でこてんぱんにされないクオリティーを持つ事が義務づけられる訳で、ザッパに言えば面倒くさい事夥しい。っつうか、それでも色んな処で重箱の隅を突つかれて、へろへろになったりする。好きじゃなけりゃ絶対できねぇと心底思ったりする。って突つかれる方が悪いんだけど。ごめん。



「こんな歴史に誰がした」(渡部昇一谷沢永一)を読了して、何時もながら、元資料そして関連資料を読まないと、にゃんとも判らない本だなぁと嘆息する。「ゴーマニズム宣言」も似た処があるのだが、一応目を通す様にしているのは、他山の石と言うか論の構築に於いて、学ぶ処は多い。って学んじゃいけない部分の方が多いのだけれど。

「新聞によりますと〜〜」と言うのは、80年代を風靡した追跡系娯楽ワイドショーの走り「ウイークエンダー」の頭振りの言葉だった。そこには新聞社名はなく、「新聞による」という一般人が受ける印象を、ある意味で端的に表し、そして利用している気がする。

「新聞による」と言えば、「それは事実である」、あるいは「実際に起こった事である」と言う保証書のような印象を、一般には与える効果を持つ。

現在殆どの図書館では新聞の縮刷版が保存されている。NHKのニュースの録画でも、通信社の配信記録及び記事でもなく、ましてや週刊誌の記事でもない。それは、新聞の縮刷版でありながら、実際には事実の記録としての位置付けとして残されている。だからこそ、公正な報道と、それに対するチェック機能を充実させて欲しいんだって。

WEB新聞の可能性つうか、そんな大袈裟なものじゃないんだけど、リンクによる語句の説明とか、理解を深めるための元資料の公開があるのではと言う気がする。軽く流して読む人は、その日の表面記事だけを読めるし、語句や関連にまで興味の及ぶ人は、どんどん深い知識が得られる。これって、WEBの構造にすごくマッチしているんじゃないのかなぁ?

新聞協会さんの現在提示されている著作権に対する見解は、ある意味でこの可能性を否定っつうか自ら閉ざしている気がする。WEBの構造に沿った、将来を見据えたリンクも含めた提言くらいしてくれもいいんじゃないかな?自分の権利ばっか留意したもんじゃなくってさ。

さて、ブランチはフレンチトーストにほうれん草サラダね。カフェラテで。テーブルに白磁の食器を並べて、出窓から吹き込むレースのカーテンを揺らす春の風の中で。

なんちゃって、出窓なんて無いし、そもそもちゃぶ台じゃん、私んち。

ってことでまたね。