湾岸道路/日記としての日記など

ヘルメットをはずし、ジッパーを下げたレザージャケットからは、少し少女の香りの残る女の匂いがする。グローブが湿っているのは、ステップを削りながら膝まづかせたカーブ達から得たエクスタシーのせいなのか、これから訪れる甘い時間への期待なのか。

なんちゃって、私がモーターサイクルに乗るようになったのは「湾岸道路」を見たからではないが、この映画は好きな映画でもある。映画としての出来栄えはともかく、70年代から80年代初頭の雰囲気が濃いのだ。

原作の片岡義男さんはまさに、この時代の香りがする。

私がこの作家に触れたのは、植草甚一さんの軌跡を追っていたときだった。伝説と言っても良い「ワンダーランド」(宝島の前身)を立ち上げた人物として興味を持って著作や編集誌を集めていたころ、ちょっととぼけた味のあるアメリカ文化の紹介のエッセイと言うか、レポートに出会った。それは、植草さんとはまた違った、身体に染み込んだその当時のアメリカの香りがあるような気がした。

その後触れた小説は、世間で言われる評価の様に、波があったり書きなぐりがあったりするとは私も思うが、時代を切り取る感覚と洒脱な雰囲気は、今でも充分評価に値する作品も少なくはないと思う。

映画化された最初の作品は、「スローなブギにしてくれ」(1981年 藤田敏八 監督)だと記憶しているが、浅野温子の存在感と南佳孝の音楽は、’80sの幕開けに相応しい、けだるさと閉塞された青春と言うか、新しい感覚であったのではないだろうか。そして、「メインテーマ」((1984 森田芳光 監督)に原作を提供したあたりから、本来の読者層が少しづつ離れてしまったようだ。本来アイドル映画の原作となるような、時代のコアを描いたり「おしゃれ」を追う作家ではなかった気がする。片岡義男の感覚を「かっこいい」と思った本来マイノリティーであった人々が時代を代表するようになり、本来感覚的には片岡義男を理解出来ない人々が流行に乗って表面だけの模倣を行い、そして感覚自体が陳腐であるとの烙印を押されるに至ったのではないか。

そんな中、「湾岸道路 (1984)」は 東陽一によって監督される。東陽一監督は言うまでもなく「やさしいにっぽん人(1971)」でインパクトの強いデビューを飾るが、そのメッセージ性ゆえに、商業ベースでの評価は別れて、「サード (1978)」「 もう頬づえはつかない (1979)」を経て、 五木寛之原作の「 四季・奈津子 (1980) 」で昔からのファンや芸術論を振りかざす評論家からは変節を糾弾されたりする。そして「マノン (1981」で再び脚本から参加するが、「ラブレター (1981)」の後、3年の空白を経ての作品が「湾岸道路」であった。

この作品に主演した草刈正雄は80年代の香りが強いアクターだと思う。

草刈正雄を初めてスクリーンで見たのは、石井聰亙 脚本 監督による「水の中の八月 (1995)」だった。この映画は語るまでもない邦画の大いなる収穫であると私は思っているのだが、その中で希薄でありながら澱のように放ち続ける存在感は異色であった。このアクターにはうまく表現できないのだが昭和20年代に生まれて、社会の価値観や、青春というか、力を放つ対象がいつも逃げ水のように掴まらなかった世代の困惑を体現している印象がある。

私は1970代中盤に生まれたので、残念ながらこの時代の一番面白い部分をリアルに体験出来た訳ではない。であるがゆえの憧れも強い。

ほんの少し前を走っていた時代に、追いつく事は決してないのだが、それがゆえに私が追い求める幻想ともなっているような気がしている。

今日は、私はオイルを換えた。場末の流行っていないガソリンスタンドのピットの隅で流れ出る少し濁ったオイルには、私が走ってくる中で削り取られたシリンダーの内側が、混じっている事を知る。そこには、初めて買った2ストロークのモーターサイクルの排気に混じる、焼けるオイルの匂いと表裏一体であることを少しづつ知ってゆく、少女のしっぽを無くした私がいる。

くすんだ壁には、店長がノービスのレースで唯一取った表彰状が飾ってあって、ケニー・ロバーツがTZRを駆り、コーナーを立ち上がるパネルが掛かっていた。投げ出されたままで埃を被っている、レプリカの白頭鷲のヘルメットもセピア色に変っている。