終戦翌年1946年の七夕の願い。平穏な暮らしと豊饒への祈り

七夕に 逢いたや 異国に散りし良人(ひと)
  三途渡りたや  我を子が止め

1946年の旧暦7月7日(新暦8月3日)、今は無いある新聞にこの歌は掲載された。それは投稿されたものではなく、百貨店に飾られた短冊に綴られていた歌で、一枚一枚笹から外される時に心打たれた一店員が、新聞社に持ち込んだものだった。

数々の大切な人達との別れを経て、前年に戦いは終わったものの、外地から引き上げてくる人の波は続いていた。満州、及び中国北東部へいた日本からの移民と、ソ連(当時)軍の参戦によって寸断された指揮系統から取り残された部隊に所属する徴兵された市民達は、シベリアや、一部蒙古国境地帯に抑留され、名簿さえ整備されえないまま、日々は流れていた。

七夕は、本来旧暦で行われていた。由来には諸説あるが、中国の宮中で行われていた天帝の娘であり、織物の達人であった織女にちなんで、祭壇に針などを供えて工芸の上達を願う星祭り、「乞巧奠(きっこうでん)」が奈良時代に渡来し、日本の土着信仰と融合して、現在の形態へ変化したという説が有力である。

現在の七夕のメインと言えば、牽牛と織女の年一度の逢瀬の話なのだが、今に伝わる文書での初出は「詩経」であるとの説が強く、東南アジア一円に広がる同様な説話はこれが原点であるとの説と、インド起源説と、インドシナ半島起源説にはいまだに結論は無い。

詩経におけるこの話は、天の河を挟んで相対するところまでとなっていて、年一度の逢瀬となるのは、中国の六朝時代(3世紀以降)であると思われている。って言うか他の東南アジアの国にはこの時代の石碑以外の文書はほとんど残っていない。

日本における七夕の原型は、7月7日に処女である機織り女が、水辺に祭壇を設け、水の神に織り立ての新布を捧げ、客神を迎える行事であったと言われている。梅雨の時期の現在では判り難いのだが、旧暦の7月7日は8月初旬の炎天の時期であり、降雨と豊饒な水の恵みは、作物には欠かせない待望の物であった。

特に東北御出身ご方々には存知の方も多いと思うが、この地方を中心に「ネムリ流し」の祭事がある。これは、睡魔を様々な形の人形や、竹等に託して、川に流した行事であるとされ、「ねぶた祭り」の唱え言葉の原形である「ねぶた流れよ、まめ(勤勉)の葉よとまれ」が本幹を表し、田植えを終え、秋の刈り入れまでの勤勉を誘い無事息災を祈る農耕祭の色彩も強い。

別系統には6日の晩から7日の朝にかけての、笹を川に流す物忌みと禊の行事であったともされ、これは年越し(恵方来神)の神事に先立って行われる準備に対して、盂蘭盆会の先行行事として行われていた記録も散見される。これは盛夏に多かった疫病を防ぐ物忌みの行事とも言われ、ここでも流されるのは笹寿司を例に挙げるまでも無く、腐敗を防ぐ薬効を有する笹の葉であった。

仙台の「七夕」、青森の 「ネブタ」、弘前の「ネプタ」、秋田の「竿燈」、能代の「七夕燈籠」などは、共に東北中心に分布する「ネムリ流し」の祭事に連なる系統と言われている。この祭祀の変遷も、土着の信仰が神道と関連されて成立した説話や、道教儒教の祭祀の色濃い中国の宮廷行事、そして仏教の浸透、神道との習合という多重な伝承世界を持つ、日本的な世界観の現れの傍証ともなっている。

大切な人々がいて、大切な暮らしがある。形は変遷してきたが、七夕のこの日も、この国の人々は天に、地に、水にそして目に見えぬすべての恵みに感謝して日々を暮らして来た。短冊に綴った言葉達は、その日思った大切なものたちだった。

還って来なかった夫には、もう逢えはしない。河を渡りたいとさえ願ったその女性の日々を支えるのは、母と慕う子供達であった。

今年の旧暦7月7日は、奇しくも終戦記念日である8月15日にあたる。風化する戦争の記憶は表面的な事象の検証に流れがちだ。私は、その日々を暮らした、短冊に願いを込めた人々の想いから、もう一度様々な事を学びたいと思っている。